東京帝国大学第二工学部設立に関連して、西千葉駅および帝大工学部前駅が現在位置に開設されたことは前述したが、それに先立つ昭和16(1941)年12月5日、「千葉都市計画北部土地区画整理」が決定され、第二工学部正門前の緑町には放射状の道路形状を持つ区画整理が行われた。この認可の理由としては、軍関係諸工場および東京帝国大学第二工学部設置に伴い、急激な都市化の傾向にあったことが挙げられている[i]。この放射状の道路は、戦後、昭和30(1955)年頃には形成され、現在も緑町の骨格を作っている。
また、この地区には、昭和17(1942)年8月には第二工学部学生寮が 6棟建設された。6畳間が180室あり、多くの学生が寮生活を送った[ii]。第二工学部閉学後は、千葉市立緑町小学校敷地となった。緑町小学校は、開学直後から研究指定校となった。軍関係の教育施設とともに、東京帝国大学第二工学部という高等教育機関が西千葉に開校したことの影響は、西千葉地区が文教地区として形成されてゆく大きな要因となったと思われる。第二工学部の開学は、西千葉地区の地域都市基盤を整備するとともに、文教地区として発展する端緒となったのであり、共通第三教室棟および応用化学棟の一部建物は、その歴史を直に伝える極めて重要な建物である。

(右)航空写真(国土地理院) 1955年 緑町の放射状道路が見える
[i] 国立公文書館所蔵「千葉都市計画北部土地区劃整理決定ノ件」
[ii] 『東京大学第二工学部史』東京大学生産研究所・発行, 1968年, p. 32