木造学校建築発達史上の位置付け

学校建築は明治期以降、各地に建設され、当初は擬洋風なども採用された。その後、明治28(1895)年4月には文部大臣官房会計課設計掛による「学校建築図説明及設計大要」(図1)が発行され、木造キング・ポスト・トラスによる小屋組の規格が掲載されたが、斜材による補強等についてはとくに目立った記載はなかった。

[図1] 文部大臣官房会計課建築掛 [編]『学校建築図説明及設計大要』, 明治28年
「小学校々舎切断図」

だが、同年9月の庄内地震により、木造校舎が被害を受けたのを受けて、中村達太郎原案による、「小学校改良木造仕様」(図2)が発表された。ここでは、筋違が柱にボルト接合され、方杖が設置されている[i]

[図2] 文部省震災予防調査会,『震災予防調査会報告』6号, 明治28年「甲乙線ノ切断図 縮尺弐拾分一」

とはいえ、次第に鉄筋コンクリートによる建設へと移行し、とくに関東大震災以後、市街地においては鉄筋コンクリートによるいわゆる復興小学校が建設された。

しかしながら、東京市においては昭和7(1932)年、それまでの15区に加えて周辺5郡82町村を加える市域拡張が行われると、新市域における学校建築においては、急設を要することから「当分ノ間木造トナス方針」とされた[ii]。古茂田甲午郎・拓殖芳男が著した『高等建築学』第20巻(昭和10(1935)年発行)を見ると、昭和7(1932)年「東京市立小学校木造校舎構造規格」(図3)では、筋違や方杖が使用されていること[iv]、また、耐風に関して、平面計画では「散漫頂戴なるコ型、L型等の開放型を避ける」[v]と記されていたことがわかる。

[図3] 古茂田甲午郎, 拓殖芳男『高等建築』第20巻第44編「学校」, p. 47

その後、昭和9(1934)年9月21日の室戸台風の被害を受け、同年12月18日学校建築物の営繕ならびに保全に関する訓令が発せられ、木造校舎の主要構造に関しては筋違、方杖、火打、控壁などの斜材や梁挟を使用することが規定された[iii]

「學校建築物ノ營繕竝ニ保全ニ關スル件」昭和9年12月18日付官報 第2390号 p. 526, 527
国立国会図書館所蔵

また、室戸台風後には、内田祥三によって建築学会に木造規準委員会が設置され[vi]、昭和13(1938)年には実大実験を経て改良を重ねた結果である『木造2階建小学校校舎構造一案』も発表された[vii]

『木造2階建小学校校舎構造一案』昭和13年, 建築学会発行, 第4図, 第5図

その後、昭和10年から19年にかけて、木造建築に関する工学的研究の数はピークを迎えたと言われる[viii]

これらの規定・規格を参照した木造学校建築は全国に建設された。現存するものとしては、西押立国民学校(滋賀県・昭和18(1943)年・登録有形文化財)、智頭町立山形小学校(鳥取県・昭和17(1942) 年・登録有形文化財)、多米小学校(愛知県・昭和19(1944)年・登録有形文化財)のほか、増毛小学校(北海道・昭和11年)、府中尋常高等小学校(東京都・昭和10(1935)年)、芦ヶ久保小学校(埼玉県・昭和10(1935)年)等がある。また、鹿沼市立北小学校(栃木県・昭和10(1935)年)は現役で使用されている。

府中尋常高等小学校(東京都・昭和10(1935)年)

共通第三教室および応用化学棟の一部建物は、基本的に上記の木造学校建築規定を参照したもので、木造2階建、一部平家建である。当時、すでに東京帝国大学本郷キャンパスでは鉄筋コンクリート造が主流となっていたのに比して、木造ペンキ塗りの校舎は学生には「瑕設のバラックを思わせる」[ix]ものと映ったようである。しかし、同校舎は、内田祥三が率先して開拓した木構造の改良の成果を部下であった清水幸重が大学施設にて実現したものでもあった。その詳細は、日本における木造建築構造研究の発達史上、重要な位置を占めるものとして、検証するに値するものと考えられる。

また、昭和13(1938)年の国家総動員法による資材統制下にもかかわらず、大学施設として必要とされた、上記小学校建築の現存例とは異なる仕様も随所に見受けられる点は重要である。


[i] 明治から大正にかけての木造建築については腰原幹雄「木造校舎の耐震改修」『生産研究』(2010年62巻6号, pp. 599-602)を参照。

[ii] 藤岡洋保, 藤川明日香「東京市立小学校木造校舎の設計規格」『日本建築学会計画系論文集』(1999 年 64 巻 515 号 p. 251-258), p. 258によれば、「昭和9 年学事 小学校317−E1 −5」(東京都公文書館資料)とのこと。

[iii] 『官報』昭和9年12月18日付

[iv] 古茂田甲午郎, 拓殖芳男『高等建築学』第20巻第44編「学校」, 1935年, p. 47 

[v] 古茂田甲午郎, 拓殖芳男『高等建築学』第20巻第44編「学校」, 1935年, p. 49

[vi] 村松貞次郎「内田先生と建築防災」『内田祥三先生作品集』内田祥三先生眉寿祝賀記念作品集刊行会, 昭和44年11月30日, p. 187-188

[vii] 腰原幹雄「木造校舎の耐震改修」『生産研究』2010年62巻6号, pp. 599-602のp. 601によれば、市街地建築物法においては、風に対する検討は盛り込まれていなかった。

[viii] 村松貞次郎「内田先生と建築防災」『内田祥三先生作品集』内田祥三先生眉寿祝賀記念作品集刊行会, 昭和44年11月30日, p. 188

[ix] 中野明『東京大学第二工学部――なぜ、9年間で消えたのか』 祥伝社新書 2015年, p. 75,  冶金学科第一期生・渡辺秀夫の述懐。

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