東京帝国大学第二工学部は昭和12(1937)年支那事変勃発後、工学部卒業生の需要の激増に応じるため、昭和13(1938)年、14(1939)年にかけて臨時増募を実施したのに続き、昭和16(1941)年1月30日、企画院での緊急会議にて設立が決定され、昭和17(1942)年4月をもって、現在の千葉市稲毛区弥生町に開学したものである[i]。
敷地は千葉市北方郊外である。この敷地は昭和12(1937)年4月1日に市会において師範学校が移転する敷地と決定され、敷地買収された所であった。しかしながら、敷地を確保したものの、新築予算がなく、師範学校の黒砂農場として使用されていた。そんな折、第二工学部の新設計画が浮上したのである[ii]。

所蔵:国際日本文化研究センター(図書館資料ID002697456)
千葉市が実質上25,000坪を買収し寄付、かつ、交通、水道、ガス、職員および学生宿舎の建設につき便宜を供することを契約し、地上物件の保障と移転を実施した上で昭和16年(1941)8月13日に地鎮祭を執り行い、工事が着手された。資材は、陸海軍折半により提供された[iii]。
校舎の建設は昭和17(1942)年4月の開学に向けて急ピッチで進められたものの、4月には校舎のうち2,313坪7棟のみの完成で、9月になってようやく全18,000坪のうち当座目標とした13,500坪の約半分の竣工に漕ぎ着けた。現存する共通第三教室および応用化学棟の一部建物はいずれも、この昭和17(1942)年9月までに建設されたものである。その後、昭和18(1943)年9月にはおよそ9割の建物が完成を見た[iv]。
施設の配置計画は当時営繕課長であった清水幸重[v]により立案された2つの案の一つで、平賀譲総長によって選ばれた。清水幸重は東京帝国大学を大正3(1914)年に卒業。大正12(1923)年に恩師の内田祥三が古在由直総長たっての依頼により営繕課長を委嘱されると、実務経験を有する者として奥村精一郎、前田長久とともに技師として就任し、内田によるキャンパス震災復興建設事業を支えた人物である。内田は、第二工学部でも教鞭をとるとともに、昭和18(1943)年、現職総長のまま病没した平賀譲に続いて東京大学総長となった。
敷地は、3行3列のブロックに分け、1ブロックを横50間、縦60間の3,000坪とするとともに、建物がすべて木造2階建であることに配慮して、ブロックの周囲には十分幅のある道路または緑地帯を設けた[vi]。現在、生産工学部跡地正門から伸びる桜および欅の並木と、それに続く北辺の並木は、第二工学部ブロック周囲に設けられた緑地帯の名残である。

また、開学時の交通は、総武線稲毛駅および浜海岸駅が最寄りであったが、第二工学部生の利便性に鑑みて、昭和17(1942)年10月1日に総武線西千葉駅が新規に開設されるとともに、京成浜海岸駅は現在のみどり台駅の場所に移設されて帝大工学部前駅に改称された[vii]。これらの駅は、現在のJR西千葉駅、および京成みどり台駅となっている。

[i] 『東京大学第二工学部史』東京大学生産研究所・発行, 1968年, p. 13, 14
[ii] 市原徹「千葉県招魂社と千葉師範学校の移転問題」『千葉いまむかし』No. 30, 2017.3, p. 89, 95
[iii]『東京大学第二工学部史』東京大学生産研究所・発行, 1968年, p. 17
[iv] 『東京大学第二工学部史』東京大学生産研究所・発行, 1968年, p. 18, 19
[v] 『東京大学本郷キャンパス 140 年の歴史をたどる』東京大学キャンパス計画室・編集, 東京大学出版会, 2018年, p. 98 清水は、駒場の航空研究所移転の際には、東京帝国大学技師として参画した。(清水幸重「航空研究所復興建築に就て(1) 」『工業雑誌』66, 6月号834, pp. 312~317, 同「航空研究所復興建築に就て(2) 」『工業雑誌』66, 7月号835, pp. 387~391)
[vi] 『東京大学第二工学部史』東京大学生産研究所・発行, 1968年, p. 18
[vii] 『東京大学第二工学部史』東京大学生産研究所・発行, 1968年, p. 23