千葉地域の戦前の建物

現在の千葉市中央区・稲毛区・若葉区には、明治41(1908)年鉄道聯隊第二大隊が現在の千葉市中央区椿森に移転して以来、同材料廠、作業場のほか、陸軍兵器補給廠、陸軍病院、気球聯隊、そして千葉聯隊区司令部などの軍施設の集積が見られるとともに、陸軍防空学校、歩兵学校、戦車学校、そして下志津飛行学校といった養成施設が設置された。しかし、昭和20(1945)年6月10日および7月7日の千葉空襲で軍事施設の多くが被災した。戦後、それでも多くの建物は学校・公共施設、公園へと転用されたが、現存する建築や工作物等は極めて少ない[i]。

千葉経済大学内に残る旧鉄道第一聯隊材料廠のレンガ造建築(明治41(1908)年・県指定有形文化財)や、千葉公園の千葉鉄道第一聯隊作業場の架橋演習用橋脚・演習用トンネルが現存している一方、旧気球聯隊第二格納庫は2020年、一部部材を残して惜しくも解体された[ii]。

しかし、これらの施設の多くは、戦後直後は、様々な用途に転用されており、昭和24(1949)年に開学した千葉大学もその施設を使用して来た歴史がある。昭和25(1950)年に設立された文理学部は稲毛区小仲台の陸軍高射学校跡地において、工場、馬小屋、車庫、照射予習室等を教室や図書館、書庫として利用していた[iii]。

また、松戸においては、昭和20(1945)年10月に東京高等工芸学校が陸軍工兵学校跡に移転し、その後、昭和24(1949)年に千葉大学工芸学部となったが、旧陸軍工兵学校の本館はじめ、各種の建物を使用していた。だが、これらの建物は、昭和37(1962)年に工学部が西千葉キャンパスへ移転した後、順次取り壊されて行った。

旧第二工学部跡地である西千葉キャンパスにおいては、当初、第二工学部事務棟や正門入って左の旧土木工学科建物などを使用し続けていた。しかし、それら建物も代替新築建物の完成に伴い取り壊され、現在は、第二工学部由来の建物は一つも現存しない。のみならず、西千葉キャンパスは全体計画において、建物の向きを原則として南向きとする方針により、構内道路計画を一新したため、第二工学部のブロック配置の痕跡も残っていない。野球場の位置が第二工学部と同じであるのと、正門まわりの段葛が、第二工学部のわずかな痕跡である。

一方、東京大学生産研究所内では、1980年頃の航空写真を見ると、冶金学教室の建物も残っていたことが分かるが、その後、立て替えられた。また、敷地割および桜・欅の並木、松林といった植栽が第二工学部時代のものをとどめているが、建築としては、事務棟として使われていた共通第三教室棟および応用化学棟の一部建物が最後の建築である。

これらの建物は、東京大学に現存する木造建築としては、小石川植物園に残る旧東京医学校本館や駒場キャンパスの三昧堂のような附属教育施設を除き、最後のものではないかと思われる。 共通第三教室棟および応用化学棟の一部建物は、東京大学生産研究所のみならず東京大学全体、千葉大学、そして、西千葉地区の旧軍施設に範囲を広げても、現存する、極めて希少な戦前の木造建築である。

[i]千葉市平和啓発パンフレット「考えよう平和の大切さ」p. 10 https://www.city.chiba.jp/shimin/shimin/somu/documents/3sennjichuunochibasi.pdf

[ii] 千葉市郷土博物館 小企画展示https://www.city.chiba.jp/kyodo/tenji/kikakutenji/kikaku_2021_01.html

[ii] 『千葉大学理学部創立50年記念誌』p. 5
http://www.s.chiba-u.ac.jp/pr/files/50th_d20181204.pdf

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